2012年5月16日水曜日

天孫降臨


今年は古事記編纂1300年になる年です。


宮崎は特に天孫降臨の地で、
邪馬台国は現在の西都原で卑弥呼(推定90何歳で死去)は天照大神です。

卑弥呼は宮崎の阿波岐原で、
イザナギノミコトとイザナミノミコトの子供として生まれ、
祝詞
{築紫(九州)の日向(ひむか)の橘の小戸の阿波岐原(アワキガハラ)で禊(ミソギ)して}
とあるのです。
このように神話の随所に日向の地名が出て来ます。

(※日向とは、昔の地名で、現在の宮崎、鹿児島を日向の国と呼んでいました。)

初代天皇の神武天皇は、
日向の国で、現在の鹿児島県大隈の柏原の生まれです。
日向でお生まれになり、当時の呼び名は伊波礼彦(イワレヒコ)

伊波礼彦(イワレヒコ)は、天照大神の孫に当たります。

天照大神の末子である、
ウガヤフキアエズノミコトとタマヨリヒメとの間の末子で、
大和(奈良)へ養子に行き、
伊須気依姫(イスケヨリヒメ)と結ばれ初代天皇に即位したのです。

その時代は、末子に相続権がありました。
その当時はモンゴリアンの影響が強く、
モンゴリアンの風習であった末子に相続させる事になっていたのです。
その証拠にジンギスハンも末子のツルイに相続し、
ツルイは末っ子のフラクに相続させています。
ツルイの次男フビライは満州へ来て別の国を建てる。

現在のように長子が相続するようになったのは、
応神天皇を相続した仁徳天皇(長子)からです。
これには悲しい実話が残っています。

末っ子の弟のウジノイラッコが、
父の応神天皇の命で、皇太子になり、
論語をもって皇太子教育をしました。

孔子の論語では、
親は親、
子は子でしっかりしなくてはならない。
兄は兄で、
弟は弟で、
弟は兄に従わなければならないと教えがあります。

弟は非常に頭が良く、論語の序を重んじる教育を受けました。

ですが、
日本国では末子が相続する風習でしたので、
応神天皇はウジノイラッコに相続させようとしました。

しかし、
論語を学んだ弟は、
長男が相続するのが正しいと思い始め、
自分が居なくなれば兄が相続する事が出来る。
と、宇治川のほとりに住んでいた弟が宇治で自殺をし、
長男である仁徳天皇に相続を譲るという、
何とも悲しい出来事があり、
この出来事からは長子が相続するようになったと言われています。

兄の仁徳天皇は、弟の自殺を惜しんで、
住んでいた宇治川の西岸に宇治神社に建て、祭ったとあります。


しかし、
神武天皇の時代は末子が相続する風習なので、
日向より他の地、大和に数年をかけて、
その地の豪族の養子になり、
初代天皇に即位したということは、
当時いろいろな出来事あったのではないかと推測されます。
陵は明治天皇が神武天皇のかかわり地である
奈良の柏原(誕生の地も鹿児島の柏原)に陵を建立し
橿原神宮として現在祭られています。
宮崎にある宮崎神宮は神武天皇が大和へ向かう時、
陣を整えた地であり、そこが初代天皇の起点であるからだと思います。


神話を紐解きますと深みに填まります。
ミミズの研究と同じみたいで研究心を湧き上がって来ます。
特に宮崎の子供たちには、
自分たちが生まれ育てられた地が
いかに日本の歴史に重要であったことを学び、
後世に伝えて貰いたいです。
私も孫たちに伝えたいと思います。

(以上の事は、私が読んだ書物、聞いた話を要約したものですので間違いがありましら、ご勘弁下さい)

それでは、ミミズの研究と神話の勉強を頑張り、後世へ伝承します。